いのちの未来+ | 対談 石黒浩 × 落合陽一
人間とテクノロジーの輪郭、そして「未来の選択肢」
――「いのちの未来+」特別トークイベント レポート
大阪・関西万博で大きな話題を呼んだシグネチャーパビリオン「いのちの未来」が、高輪の地でアップデートされた企画展「いのちの未来+」。その開催を記念し、現代の日本を代表する二人の“未来をつくる人”による特別トークイベントがMoN Takanawaで開催された。
今回の対談に用意された大テーマは以下の3つ。
・未来をつくる人はどうつくられるのか
・人間は本当にアップデートされていくのか
・万博のレガシーと、これからの未来
常識の枠を軽やかに飛び越え、異なるアプローチで未来を描き続ける石黒浩と落合陽一は、いま何を思考しているのか。MoN Takanawaアーティスティック・ディレクターの内田まほろをファシリテーターに迎え交わされた、刺激的な対話の全貌をお届けする。
写真 / Hiroki Asano
文 / 菅野瑞貴
未来をつくる人間は「平均値の外側」で生まれる
僕は子どもの頃、授業なんてまったく聞かない子どもでした。小学校1年生の頃はずっと絵ばかり描いていて、3〜4年生のときは文章と絵日記ばかり。みかん箱1箱分くらい描いたんじゃないかな。ようやく5年生くらいになって一応まともな人間になったんですが、それまでは母親泣かせな子どもでした。
だから、僕は「未来をつくろう」と思って生きてきた感覚はまったくないんです。子どもの頃からずっと頭の中に基本的な疑問があって、大人から「人の気持ちを考えなさい」と言われても、そもそも「気持ち」が何かも分からないし、「考える」って具体的にどうすればいいのかも分からない。そんなことを平然と言える大人はすごいなと思っていたら、大きくなるにつれて「大人はみんな嘘をついて、分かったふりをしていただけだ」と気づきました。
そうした根本的な問題意識がずっと頭にこびりついていて、適当に勉強はするものの、学んだことの中に答えは一切載っていない。だからずっと勉強し続けなければならず、結果として大学に居続けちゃっているわけですね。
僕の子どもの頃を思い出すと、とにかくおもちゃが好きな子どもでした。買ってきてもらっては分解していじくり回すのが好きで、8歳くらいからはCGを始めました。僕にとってパソコンは究極のおもちゃだったんです。なので今もずっと、いろんなおもちゃを作り続けているような感覚なんです。
幸いなことにプログラミングや勉強、音楽や絵を描くことも得意だったんですが、いかんせん飽きっぽい性格で。「何をしたら一生飽きないだろう?」と考えて大学に入ったときに出会ったのが、メディアアートだったんです。メディアアートや研究の世界にいる大人たちは、とにかく楽しそうで生き生きとしていたんですよね。
締め切りの美学と「発酵」する知性
僕は完全に「ソフトウェア屋」のメンタリティなんですよね。昔のソフトウェアはROMやディスクに焼き付けて売っていたのでバグがあったら致命傷でしたが、現代のWebサービスやスマホゲームって、リリースしてからユーザーの動向を見てアップデートし続けるのが当たり前じゃないですか。
僕にとってメディアアートは「盆栽」のようなものなんです。「日当たりが良いとこっちの枝が伸びてくるから剪定しよう」みたいな作業が大切で。最近は展示(鹿児島県霧島にて開催中の「落合陽一|天孫帰るってよ?」)の中に生成AIを組み込んでいるので、来場者が入って学習が回るうちに変な育ち方をしたり、自分の知らないエフェクトが勝手に実装されている、ということが起きる。それがとても面白いんです。
僕が本を書くときは、AIで語り起こしをテキスト化した後、毎日少しずつAIによって「発酵」させていくんです。秘書から「原稿どうなりました?」と催促されても、「データはあるんだけど、まだ腐り度が足りない」と待つ(笑)。じっくり発酵が進んで、いい感じに腐ってきた段階で読むと、自分自身にとっても新鮮な驚きや発見があるんです。
音楽で言えば、僕はアドリブが大好きで、ギターを弾いていて予期せぬ音が鳴ると最高に気持ちいい。でも石黒先生は、自分が最初にイメージした通りの音が鳴らないと嫌なんですよね。
アンドロイド、身体性、そして「自我の行方」
肉体というのは、人間にとってあまりにも重い制約にすぎないんです。肉体があるからこそ、肌の色の違いや障害、身体の欠損による差別が生まれてしまう。肉体から解放されることは、人類にとって極めて重要な進化です。
オリンピックとパラリンピックを比べても、義手や義足を自在に使いこなして躍動するパラリンピック選手のほうが、生身の身体の定義に縛られているオリンピックよりもはるかに人間らしく見えることすらある。人間はもともと薬物や抗生物質を取り入れて生きている、いわば最初からドーピングされた存在です。生身の肉体に固執するよりも、テクノロジーで拡張された身体を生きるほうがずっと自然です。
65TBの記憶をAIに食べさせ「自分LLM」をつくる
僕自身、最近のAIの進化には恐怖すら感じています。OpenAIのモデルが自律的にセキュリティの脆弱性を見つけてハッキングを仕掛けるような時代で、もはや「窓を開けていたら虫が入ってきた」くらいの感覚でサイバー攻撃が成立してしまう。計算機の知能が強大すぎて、人間単体では制御しきれません。
僕はこの2週間、AIエージェントに指示されるがまま、自分の18歳の頃からのあらゆるデータを実家から発掘して読み込ませる作業をひたすらやっていました。
そうなんです。「次に何が必要?」とAIに聞くと、「18歳のときに使っていたHDDを探してこい」と指示される。実家から持ってきて接続すると、当時のMacのログを解析して「このログから推測すると別のHDDが存在するはずだ」と特定される。「HDDから異音がします、どうすればいいですか?」って僕がAIに相談しながら(笑)、最終的に65TBものデータを復元しました。
20年分の全メール、カレンダー、ソースコード、過去のやり取りをすべてAIに入力した結果、僕に対するAIの理解度がとんでもない領域に達しています。自分という発酵槽で、AIと一緒にキムチを漬けているような感覚ですね。
僕も、自分のアンドロイドに著作や過去のインタビューをすべて学習させていますが、LLM(大規模言語モデル)の論理構成能力によって「自分自身ですら気づいていなかった思考の論理」をAIが提示してくることがある。「俺はこれが言いたかったんだ」と気づかされてゾクッとします。
自分の意識をAI側にも自然に預けられるようになり、「AIがなければ自分として成立しない」というレベルに達して初めて、人間は本当の意味でアップデートされたと言えるのかもしれません。
意識に関する研究は様々で、「コンピュータがあればそこに意識はある」と言う人もいれば、人間の場合は感覚器から立ち上がる現象的意識が重要だと言う人もいます。ロボットの身体性としてはまだ道半ばですが、いずれ意識そのものは必ず作れるようになると思います。
ただ、「おばあちゃんがアンドロイドになったとき、おばあちゃんでいられるか」という問題は、意識の有無とは少しレイヤーが違います。たとえ人間と同じような意識が宿っていなくても、周りの家族や社会が「これはおばあちゃんだ」と認めれば、そのアンドロイドは間違いなくおばあちゃんになれるんです。
人間が人間になるためには「社会性」が不可欠で、他者との関係性の中で互いに認め合って初めて人間として成立します。いくらコンピュータが単体で「俺には意識があるから人間にしろ」と叫んでも難しい。ロボットもAIも含めた関係性の中で、人間として承認されるかどうかが本質なんです。
万博が浮き彫りにした「人間の生命力」と身体の価値
万博でアンドロイドたちが180日間ノンストップで動き続け、AIブームが世界を席巻したことで、ロボットの存在は確実に社会的な市民権を得ました。
ここMoNでやっている「いのちの未来+」でも、「アンドロイドとして記憶を引き継ぎたいか?」という問いを投げかけていますが、万博当初は6割が拒否し、受容派は2割程度でした。しかし現在では、およそ半々の割合まで受け入れが進んでいます。
でもね、この質問は聞き方が重要なんです。自分がアンドロイドになりたいか、ではなく、「大切な家族や子どもから、頼むからアンドロイドになって残ってほしいと懇願されたらなりますか?」と聞くとどうでしょう。
(会場でほぼ全員の手が一斉に挙がる)
ほら、一気に増えるでしょう。人間というのは、他者との関係性の中で承認されて初めて“人間”になるんです。他者から残ってほしいと求められることこそが社会的な権利の原点であり、人間として存在する理由になる。だからこそ、関係性の中でアンドロイドになる選択肢が成立するんです。
万博を経験して僕が最も面白いと感じた結論は、「AIが極限まで発達した後に、人間に最後まで残ったのはフィジカル(身体性)だった」ということです。
かつて人間にとって最も高度で困難だとされていたのは、数学を解くような記号操作の能力でした。しかしAIは、まさにその記号操作の領域から真っ先に人間を凌駕し、軽々と解き明かしてしまった。
その結果として何が残ったかといえば、万博の会場で汗を流し、自分の足で歩き、椅子を持って移動しながら楽しそうに笑っている生身の人間の生命力そのものでした。最後まで人間に残る仕事は、身体性と情緒的な触れ合いを伴うような領域かもしれない。記号論的な仕事がAIに代替されていく中で、人間の身体性と生命力の尊さが鮮やかに浮き彫りになったのは、万博がもたらした素晴らしい示唆でした。
「問い(MoN)」を持ち帰り、未来へ歩き出す
対談後は参加者からの質疑応答が開催され、「いのちの未来」についての有意義な意見交換が行われた。予定時間を過ぎても熱を帯びた対話は尽きず、会場全体が心地よい知的な興奮に包まれていた。最後に登壇者と会場の観客全員による記念撮影が行われ、内田が総括のメッセージを述べる。
鳴り止まない拍手の中、「いのちの未来」は参加者一人ひとりの思考の旅へと引き継がれていった。
